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ピアノ協奏曲第3番 (チャイコフスキー) : ウィキペディア日本語版
ピアノ協奏曲第3番 (チャイコフスキー)[ぴあのきょうそうきょくだい3ばん]

ピアノ協奏曲 第3番()変ホ長調は、ピョートル・チャイコフスキーの楽曲の一つ。ただし、全曲の完成には至らなかった。
チャイコフスキーは初めは『人生』と銘打った交響曲を構想していたが、それを後に破棄し、ピアノ協奏曲として生まれ変わらせることにした。しかし完成以前にチャイコフスキーは死去したため、結局のところ作曲者が完成させることのできたのは第1楽章「アレグロ・ブリランテ」のみであり、それが死後に遺作として作品75という番号つきで出版された。
チャイコフスキーの死後、その弟子のセルゲイ・タネーエフがこの曲の緩徐楽章と終楽章のスケッチを補筆・編集し、『アンダンテとフィナーレ』(出版にあたって「作品79」とされた)とした。
本作の複雑きわまる成立史は、交響曲第5番の大成功を受けて、チャイコフスキーが自分自身を表現しようとした悪戦苦闘を映し出している。結局その試みが叶ったのは、交響曲第6番『悲愴』においてであった。
なお、後にこの曲やタネーエフ編の『アンダンテとフィナーレ』などを基にして、チャイコフスキーが当初考えていた『人生』交響曲の再構成の試みが行われている。そのひとつが、1950年代にロシアの作曲家セミヨン・ボガティレフが4楽章の交響曲に編集し直した『交響曲第7番変ホ長調』である。さらに、2005年にロシアの作曲家ピョートル・クリモフが3楽章の交響曲として編集し直している。日本ではこのクリモフ版を「未完成交響曲『ジーズニ』」と呼び、日本初演および録音が行われている。
== 『人生』交響曲 ==

チャイコフスキーはかつてロシア皇族のコンスタンチン大公に次のように述べている。
:「私は文字通りに、働かずには生きられないのです。ある仕事が片付いてしまえば(略)すぐに新しい仕事に取り掛かろうとする願望が沸くのです。(略)このような状況では、新しい仕事が真の創造的な必然性によって生じるとは限りません〔Alexander Pozansky, ''Tchaikovsky: The Quest for the Inner Man'' (New York: Schirmer Books, 1991), 552〕。」
1889年11月までに、チャイコフスキーの創作衝動はいよいよ激しくなろうとしていた。交響曲第5番が完成してから1年が経っており、それとは別の曲から見ても、8ヵ月が経っていた。チャイコフスキーはコンスタンチン大公に、何か漠然とした標題による大規模な交響曲で自分の創作活動の有終の美を飾りたいと長いこと切望していたのだと打ち明けている。その曲がどんなものになるかについて、事前の発想をいくつか書き留めたのは、1年半のアメリカ演奏旅行から帰国する前だった。とはいえ、より重要なのは、チャイコフスキーが大まかに構想した標題なのである。
:「この交響曲の(略)究極の本質は、人生である。第1楽章は、仕事に対する衝動や情熱、それに自信。短くしなければならない(挫折の結果としての最後の死)。第2楽章は愛、第3楽章は落胆、第4楽章は死(やはり短く)〔David Brown, ''Tchaikovsky: The Final Years (New York: W. W. Norton & Company, 1992), 388〕。」
それからの数ヶ月間、チャイコフスキーは『くるみ割り人形』と『イオランタ』を作曲しながら、交響曲『人生』の細かい楽曲素材を書き続けたが、いざ体系的な創作に取りかかってみると、これらの多くや以前の楽想は破棄された。使われるべき標題にしても然りであった。しかし、その他の素材は作品の素案とされた。進捗具合は迅速で、1890年6月8日までに第1楽章と終楽章がスケッチされた。チャイコフスキーは7月と8月にかけて続きの作曲を片付けたいと望んでいたが、残りの部分の作曲は10月までもたついた。それでも11月4日には全曲のスケッチが完成し、それから3日がかりで第1楽章が再現部までオーケストレーションを施された。
チャイコフスキーはすでにモスクワの2月の慈善演奏会で、新作交響曲の初演を申し出ていた。だが、今一度の中断を余儀なくされてから、改めてスケッチを見直してみると、全く興醒めした。甥のボブことヴラディーミル・ダヴィドフに宛てた1892年12月16日付けの書簡において、「こいつはただ何かを作曲するためだけに書かれた代物だ。面白いところも共感を呼ぶようなところもまるでない」とこぼしている。「こいつは破棄して、無かったことにする……きっと。」と付け加えてもいるものの、「この主題はまだ私の想像力を羽ばたかせる可能性がある」とも言っている〔Brown, 388〕。ただし、どのくらいの可能性があるのかは、チャイコフスキー自身はっきりと分かってはいなかったのかもしれない。
すぐさまダヴィドフは返事をよこした。非常に力強い言い回しにチャイコフスキーは驚いた。1892年12月19日付の手紙で、ダヴィドフはこう書いたのである。「僕も残念に思います。おじさんがその交響曲を、自分には醜く思えたというので、スパルタの子供たちがしたように崖から投げ捨ててしまったとはね。それでもその交響曲は、5番までの交響曲と同じく、きっと天才の仕事だったでしょうにね〔Alexander Poznansky, ''Tchaikovsky: The Quest for the Inner Man'' (New York: Schirmer Books, 1991), 553〕。」
チャイコフスキーが変ホ長調の交響曲を断念したのは、交響曲にはどうしても必要だと感じていた内省を欠いていて、人格を交えていないと悟ったからだった。つまり、人生哲学や、創り手個人の感情の表現が見当たらないということである。チャイコフスキーはこの交響曲を作り続ける気力を殺がれ、「無意味な和音と、何も表現しないリズムのまとまり」と呼んだ〔Lawrence and Elisabeth Hanson, ''Tchaikovsky: The Man Behind the Music''(New York: Dodd, Mead & Company), 356〕。それでもダヴィドフの発言に鼓舞されて、スケッチをすべて破棄してしまう代わりに、再利用しようと思い立った〔Poznansky, 553〕。「変ホ長調の交響曲」の音楽は、チャイコフスキー個人の判断基準では、情緒的に何も言い表していなかったのだとしても、だからといってそれが無価値というわけではなかったのである。主楽想はきわめて魅力的であり、巧みに展開され、外向的である。このような主題が耳をそばだてるように扱うことができる作曲家の手にかかれば、とどのつまり結果は、音楽学者が分析するに値するものとなるのである〔Hanson and Hanson, 356〕。
より重要なのは、構想した標題に基づいて新作交響曲を書き上げるという考えをチャイコフスキーが放棄していなかったことである。変ホ長調の交響曲は、骨折り損のくたびれ儲けに終わったが、その後に『悲愴』交響曲となったものを着想する上では影響力があった。
破棄した交響曲のスケッチをピアノ協奏曲に転用するという考えにチャイコフスキーが初めて言及したのは、1893年4月になってからである〔Brown, 387-388.〕。チャイコフスキーは7月5日にピアノ協奏曲の作曲に取りかかり、それから8日後に第1楽章を完成させた。すぐに仕事は終わったものの、チャイコフスキーはそれが満足できる仕事ではないと分かっていた。自筆譜の上に、「お蔭様でお仕舞い!」と書き込んだが、秋になるまでそのオーケストレーションに着手しなかったからである〔Warrack, ''Tchaikovsky Symphonies and Concertos'', 47〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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